「当たり前」が失われた瞬間
私は現在弁護士として活動していますが、お寺で生まれ育ったこともあり、1年ほど修行僧として過ごした期間があります。
修行の内容は割愛しますが、修行中に起こったある出来事によって、両足が麻痺し、さらに右足は腐りはじめてしまいました。
修行中の身ですので、すぐに病院に行くこともできません。
日々症状が悪化し、冷たく紫色に変色していく自分の足をただ見つめることしかできない状況に絶望し、先の見えない暗闇の中にいるような感覚だったのを覚えています。
(結局、病院に行けたのは1週間以上後になりました。)
「当たり前」が実は「ありがたかった」
当然歩くことはできません。壁を支えに、カタツムリ並の速度で「移動」するのですが、動く度に電気のような痛みが走ります。
その時、生まれつき健康な足があり、何不自由なく歩けていたことが、本当は「ありがたい」ことだったのだと気付かされました。
「歩く」ことは、目的地に行くための手段だったり、ダイエットや健康の手段だったり、人によって様々かと思いますが、歩くこと自体が目的やメインになることは少ないと思います。
私も、物心ついたときから当たり前のように歩いていました。しかし、失って初めて「ありがたい」ことだったのだと気付くことができたのです。
ありがたいは漢字で「有り難い」と書きますが、つまり歩くという「当たり前」だと思っていたことが、実は「有ることが難しい」ことだったのです。
歩くことができないので、何一つ自分で満足にすることができません。
その間、私は沢山の人のお世話になり、また、迷惑をおかけしながら生活していました。
周りの人に支えられながら、半年後、ようやく少しずつ歩けるまでに快復しました。
(さらにそこから普通に歩けるようになるまで半年以上かかるのですが、その間支えていただいた方々には感謝してもしきれません。)
現在も後遺症はあるのですが、症状の都度、沢山の人の支えがあっていま歩くことができていることに感謝できますので、必ずしも悪いことばかりではないと思っています。
「当たり前(有り難いこと)」を守る
弁護士業をしていると、意図しない事件や事故によって、ある日突然その人にとって当たり前だったことが失われる場面に遭遇します。
弁護士として、まずは依頼者様にとって大切な「当たり前」をそもそも失わないように活動し、もし失われてしまった場合でも、「当たり前」を取り戻すために最善を尽くしたいと考えています。